日本の国の礼法(礼儀作法)は、いつ頃どのように誕生し、今に伝わってきたか、その流れをかいつまんでお伝えしましょう。
日本には八百年来、糾法(きゅうほう)という「射(弓)・御(馬)・礼法」を司る家がありました。清和天皇の孫、経基王を始祖とする小笠原惣領家です。経基王は「源」の姓を賜り弓馬に大変優れていました。
子孫には清和源氏新羅三郎義光や源平の内乱に戦功をたてた加賀美次郎遠光がおります。遠光も文武に秀で、甲斐巨摩郡小笠原荘に生まれ住んでいたことから高倉天皇より「小笠原」の姓を賜り、その子長清が小笠原姓の始祖となります。
長清は源頼朝から重く用いられ、範朝にあてた書状のなかで、長清を「ことにいとおしく」と述べるなど、篤い信任を得ていました。弓馬の名手として知られ頼朝の鶴岡八幡宮等の公式社参の儀に関与したり、命を承り弓始、奉射、流鏑馬、犬追物他、弓馬等の儀式を執行したと述べられています。すでに弓馬に独自の故実をもっていたことは認められており、二十六歳で頼朝の弓馬の師範となります。
六世宗長は将軍久明親王の矢啓(武将の子が初めて弓矢で獲物を仕留めた祝い)の儀に関与しました。
後醍醐天皇に親しく弓馬の秘伝をつたえ、天皇はその功をめでて「小笠原は日本武士の定式たるべし」と御手判を賜り、正三位に叙し、昇殿を許し、さらに官画士に貞宗像を描かせました。その折、家紋として「王」の字を賜りましたが、貞宗は「王」の字をそのまま用いるのを遠慮して、それを象徴する三階菱を家紋とすることにしました。武門としては武将・足利尊氏の糾法の師として功を上げ『「射(弓)・御(馬)・礼」の三者を以て、まさにわが家の業となすべし、一つも欠くべからず(中略)」』との遺戒もあり、目覚ましい事跡が残っています。その後、大鑑禅氏に帰依して信州の開禅寺を興しました。
足利三代将軍義光から武家の諸礼・品節を総記して、これを献ずべしとの命を受け、今川左京大夫氏頼・伊勢武蔵守平憲忠朝臣とともに三雄心を同じくして、室町幕府の礼式の基本となる「三議一統」を編みました。内容は礼儀も武術も含め武士一般の教養を目指したもので、小笠原惣領家と幕府との関わり合いを定め、後世に小笠原といえば礼法といわれる基盤が出来上がったのはこの頃のことです。
長時は武田信玄とのたびたびの合戦のすえ敗れ、深志城(現松本城)も落ち、領地を失いました。そのため信州を去り越後の上杉謙信、京都の同族・三好長慶、さらに奥州へと落去しましたが、このように転々としながらも諸侯に迎えられたのは領土・財力・武力によるものではなく、源家の名流、弓・馬・礼法の伝統が重んじられてのことでした。そんな時でも昇殿を許されていたため京都まで将軍家に弓馬術を教えに行っていました。
深志城の回復をめざし本能寺の変のころ旧臣を慕って三十二年ぶりに本懐を遂げ、松本城と改めました。そして三議一統以来加えられた今川・伊勢両家に伝わる故実をくみいれた小笠原惣領家礼法の整序につとめ、その結果大成したことが「礼書七冊」になりました。小笠原礼書七冊は弓馬故実に礼法をくわえた室町期武家礼法を知る極めて重要な文献であることは明らかです。後の華美を誇るのみを煩雑な礼法と比較して、武家の質朴な礼の本義を示しています。
秀政は徳川家康の孫姫と結婚し、大阪夏の陣において長男と共に戦死、次子忠真も重症。その功により松本八万石から播州明石十一万石、豊前国小倉十五万石へと増封され、甥や弟の分家も認められ、九州北部三十万石以上に及ぶ小笠原各家の惣領家として九州の入口を鎮める役を任せられ、徳川の九州対策の要として役割を果たしました。そして剣客宮本武蔵を招き優遇し、その子伊織共々師事し、剣法の教習に従いました。
幕末を迎え明治の廃藩置県の藩主。明治維新後本家伯爵で爵位は正五位、分家は子爵を授けられました。
長幹は貴族院議員として現在も行われている国勢調査を始めるなどの活躍をし、家法の糾法(馬・弓・礼)は大名の家計として、以前と同じく将軍家以外では行えない、いわば「御止流」として奥義は一子相伝として余人には伝えず守ることに徹しました。
忠統の時代、昭和にはいりましても礼法は秘伝を守る方が重んじられ、長男(嫡子)のみに伝えられたため、奥義は家臣も知らぬと言う厳しさでした。そのようなことから小笠原流礼法の名のみは高く職業的な名ばかりの礼法師匠が多く出現した時代もありました。そして戦後、そのような師匠の形から入る礼法は堅苦しくて封建的という烙印を押され、してはならないものとなってしまいました。その結果として礼儀作法は伝わらなくなり、相手のことを考えない無作法な人が増えてしまったのは否めない現実です。
そのような折、真の礼法を望む声が高まり、小倉城初代藩主忠真の三百五十年祭の折、郷土の人たちから「敗戦後礼儀や躾の空白が目立ってきたため当主が率先して礼法普及に努めるべき」と強く薦められました。自身も教壇に立ちながら終戦直後の教育界では礼儀や躾を教えられなかった苦しい反省もあって守る立場から広める立場に立つ画期的な決心をいたしました。
以上、簡単にお示しさせていただきました。